課題探求的な学習を含む授業 学習課題の必然性

学習課題を考える際に、「それは英語で行う必要があるのか。」や「英語である必然性はあるのか。」というように聞かれることがある。この問いを自ら考えた学習課題にぶつけ、吟味し、悩んだものだった。しかし今では、「それが生徒にとってありうるコミュニケーションの場面であれば、ありうる。」と答えることができる。例えば、中学1年生の課題として、「友だちに自宅に来てもらって一緒に勉強してもらうには、どのように誘えば良いだろうか。」という課題。または、小・中学生に起こりうる生徒指導的な問題、例えば「彼氏が自分の写真を拡散するといっている。どうしたら良いだろうか。」や、「ネットショッピングで買ったはずのものと違う物が送られてきたが、どうしたらよいだろうか。」や、「眠たい、眠たいと言っている友だちにどのようにアドバイスをしたらよいだろうか」などの課題、または、生徒たちから意見を吸い上げてもいい。これらをどのように伝え、聞き出し、またアドバイスをするか。これらはすべて、英語である必要がある。もちろん、日本語である必要もある。
要するに、今や、友だちと英語で話したほうがいい状況はありふれていて、さらに年が経てば、英語でコミュニケーションをとることが必然となってくる。生徒たちがコミュニケーション力をあげるために避けられない話題は何だろうか、どのような内容なら「言ってみたい」「伝えたい」「考えてみたい」と思うかに想像をめぐらせる必要があるのではないだろうか。生徒には、「英語が必要な時代なんだよ」と教えておきながら、それを指導者が想像しないようでは困る。
むしろ、なくなってしまうかもしれないのは、テクノロジーの発達によるless communicationで成り立つ特殊な場面での会話なのかもしれない。お店での買い物は、タッチパネルとカードで成り立ち、道案内は”OK, google”か、”I can go with you.”で事足りる。
もちろん、生徒にその必然性をすぐに実感させたいのであれば、そのような場面設定で表現させる必要があり、それは少し考える必要がある。でも、特別にこちらが設定した状況でしか実感できないようなものは、今後、どれだけ頻繁に彼らに訪れるものなのかも分からない。
手を変え品を変え、レッスンを変え、場面を変え、生徒にコミュニケーションをとる機会を提供し続けることが必要だと思う。さまざまな種類の会話にさらし、触れさせていかないと、結局は、会話にも入っていけない大人になるのではないか、と心配になる。英検の級は高いのに、色々な人たちと縦横無尽にコミュニケーションをとれていない人がいるのは、色々と間違っているからだと私は思う。

0コメント

  • 1000 / 1000

北研 北海道